日本が最も輝いていた”昭和”とりわけ昭和30年代から40年代にかけて、日本経済は未曽有の大型景気を迎える。この世界でも例のない高度経済成長は庶民の暮らしを豊かにし、"3C"と呼ばれた「カラーテレビ、クーラー、自動車(car)」が普及し、日本人のライフスタイルは大きく変わっていった。娯楽も様変わりし、それまでの映画からテレビが娯楽の中心的存在になった。
昭和40年代、テレビ界はドラマが黄金時代を迎える。人気を博したのはホームドラマで『肝っ玉かあさん』『ありがとう』『時間ですよ』といった番組がヒットした。これら東京制作の番組に対して、大阪のテレビ局は、関西を舞台にした"上方もの"、中でも主人公が逆境を乗り越えていく姿を描いた"根性もの"と言われるジャンルで勝負し、『横堀川』『道頓堀』など大阪の地名をタイトルに冠したテレビドラマが次々制作されて人気を呼んだ。
この"上方・根性もの"ドラマの作者として一世を風靡したのが花登筐だった。

昭和30年代に驚異的な高視聴率を記録したコメディドラマ『番頭はんと丁稚どん』の脚本を執筆して上方喜劇の第一人者になった花登筐は、昭和40年代に入ると本格ドラマに軸足を移し、話題作を次々手がける。中でも昭和45(1970)年に放映開始した『細うで繁盛記』は高度経済成長時代にふさわしいサクセスストーリーとして全国的な大ヒットを記録した。続いて"ど根性ドラマ"の集大成として執筆されたのが『どてらい男』だった。
主人公の山下猛造(モーやん)は福井の貧農の息子で、大阪・立売堀の機械工具問屋に丁稚奉公に入り、店主や番頭からいじめられながらも商人(あきんど)として成長してゆく。この物語の主人公にはモデルがいた。専門商社『山善』の創業者、山本猛夫だ。
花登筐は山本猛夫社長との出会いを自叙伝で次のように書いている。

『毎日曜日に着流しのおやじさんらしい近所の人が来て、私の家の運転手に、「あんたとこの先生の顔色が悪い。これ飲ませなはれ」と漢方薬らしき薬をくれたのである。「お名前は?」運転手が尋ねると「近所に住む山本でんねん」そう言われても心当たりがないし、もちろんその怪しげな薬は飲まなかったが、それから2、3ヵ月経った頃、日刊工業新聞から大阪商工会議所での対談の申し出があった。相手は、上昇機運に乗る立売堀の機械器具卸商の「山善」の社長であるとのことだった。私が引き受けて会ったところ、開口一番、「あの薬飲んでまっか」と言われ、名刺を出されたとき、毎日曜日に薬をもらっていた人物が、その「山善」の社長であることを知って、私はパンチを食らった。どこのだれかも言わずに漢方薬を届けてくれている人物が、今や業界でのし上がっている「山善」の社長自身だったのである。』(『私の裏切り裏切られ史』朝日新聞社)

「わいのこと、ドラマに書いてくれまへんか」
 そう切り出して、自身の生い立ちから「山善」創設まで、山本猛夫社長が語る立志伝に心を動かされた花登筐はドラマ化を前提に、山本猛夫社長をモデルにした主人公が活躍する小説『どてらい男』を週刊誌に連載を始めた。タイトルの"どてらい"は"非常に大きい"という意味の関西方言で、ケタはずれな主人公を一言で言い表している。

テレビドラマ『どてらい男』は関西テレビの制作で、昭和48年10月から放映を開始した。どんなにいじめられても最後にはしたたかにやり返す主人公"モーやん"はまたたくまに視聴者の心をつかんだ。視聴率は回を重ねるごとに上昇し、高視聴率をマーク。とりわけ関西地区では毎週視聴率ベスト10にランクインするほどの人気ぶりだった。そのため放映期間も当初の予定を超え、通算4回の延長を重ね、ストーリーの連続したドラマとしてはほとんど例のないロングランを記録した。

『どてらい男』の放送がスタートしたのは折しも第一次オイルショックの年で、昭和30年代から続いた高度経済成長が終わりを告げ、翌年には戦後初のマイナス経済成長を記録する。そんな不況の閉塞感に包まれている時代だったからこそ、不屈の主人公が活躍し、成功の階段を上っていく"ど根性ドラマ"は視聴者に熱狂的に支持されたと言える。実際、ドラマ放映中、局には「商売のコツを教えてほしい」「モーやん語録を社員研修に使わせてほしい」等の依頼が殺到したという。逆境を跳ね返すモーやんの痛快無比な生きざまは、多くの人に夢と希望を与えたのだ。

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